人生には終わりがあるよ。


今日は、施設に着いたら一番に、

系列の施設でとても元気だったAさんの訃報が。

もちろん、訃報を受け取るのは初めてではないのだけれど。

とっても悲しくて。

体もまだまだお元気で、杖も使わずに歩けもしていた。

目もしっかり誰が誰かを判別して、

周りをよく見ていたAさんだった。

いつも決まったご自分の実家、お店の名前と住所を口にする。

「知ってる?」     と聞かれて、

「もちろん存じてますよ」と答えると笑顔になる。

このやり取りは何百回しただろう。

少しずつ自分が自分で無くなる不安をきっと、

言葉にはならずとも 感じ取っていらっしゃった。

その、確実な「住所」という

「変わらないもの」

きっと、それを口にすると、

今ここの自分を取り戻せるから、

なんども口にされていたんじゃないかなと、

思います。

少しずつ少しずつ、

便の処理も、思うようにできなくなっていたAさん。

どんな言葉をかけたら落ち着けたのか?

もっともっと、楽しい時間が過ごせたんじゃないか?

もっとこんなことができたんじゃないかと

思い返すのはエゴなんでしょうけど。

でも、きっとそれでも良いんだろうなとも

思うのです。

春を待てるのは、あと何回?

今日から3月。

あっという間に60/365です。

いつ、命が終わるかは分からない。

この前の、大杉漣さんの急死も、

未だ信じられない気持ちの方は、いっぱいいますよね。

テレビの中でしか、会ったことはないのに。

映画や映像で、また会える。そう思えたらずっと生き続けている大杉漣さん。

こんなに自然に死が近い場所にいてさえも、

そのお別れってあるのかなって、

いつもの毎日が過ぎていくようにだけ、感じてしまう。

それはきっと、

あちら側、介護される側から見る景色には、

ちっとも触れられてない証拠なんでしょうね。

ご飯を食べ、排泄をして、

お風呂に入り、眠る。

その、繰り返しのお手伝いにしか見えなかったら、

毎日同じに見えちゃいますね。

でも、これは絶対。

今生きている人は致死率100%です。

人生には終わりがあるよ。

だから明日目が覚めたら、

今会えているこの時間、ありったけの想いで接したい。

見せるのは、出来るならば笑顔でいたいですね。

自我境界

死ぬ時には、どうされたいですか?

昔は 自然に死が隣にあったけれど、

いつの間にか、忌み嫌うものに変わっていって

人がどうやって死ぬかなんて、

目の前で見れる世界は減りました。

死を意識させることは、

日常から消されているような今。

あっという間に誰の目にも触れずに流れていく。

それは、排泄も同じ。

臭いものには蓋をするように、

排泄物は汚いものとして意識付けられているのは、

人が人らしく清潔に生きるための

「自我境界」です。

自分の体の外に出た瞬間から、

「からだから離すもの」

として認識する。

その境界線がグレーになっていく時。

出た便を、便と認識できない。

おむつ内での排便は、

お尻の部分に得体の知れない物体がくっ付いている。

そんな状態なのですから、

それは触っちゃいますよね。

こういったことって、

すぐ、問題にされちゃいますよね。

でももし、

排泄物を排泄物として認識出来ていないのかも?

そう思えたら、

少し言葉は変わってくるはずです。

そして、どう、自分がそんな時に声をかけられたいか

少しでも考えることでも、

変わります。

がっちり境界線が引かれた世界より、

自分も他人も、それ以外のものも、

境界線が曖昧な方が

もしかして生きやすいのかも と思います。

皆さんは、

死ぬ時にはどんな姿で、

どうされていたいですか?

それを考えると、

紐解ける今のことがあるかもしれません。

臨終を習うてのちに他事を習うべし

日蓮上人 

いつもセミナーの最後でお伝えしている言葉です。
背筋が伸びます。  

しっかり出して

すっきり生きる

お手伝いを。

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